いつごろから食べられてきたの?

大麦の研究で有名な、岡山大学の武田先生のお話では、人類が原人だった100万年以上も前から、 人類の祖先が野生の大麦を食べていた可能性があるとのことです。作物としての大麦は、紀元前6000年ごろには、 メソポタミア文明の発祥地であるチグリス・ユーフラテス両河流域において、すでに栽培されていました。 そして、人類の移動とともに大麦は世界中に広がっていきました。

日本での大麦食品の歴史は?
日本では弥生時代の初期とみられる遺跡から、土器に付着した大麦が発見されています。 このことから弥生時代の農耕文化において、大麦はすでに重要な作物であったといえます。 8世紀に編纂された『古事記』の中には「麦」が登場しますが、ここではそれが大麦なのか小麦なのかは書かれていません。 ほぼ同年代に書かれた『元正天皇の詔勅』では、「大小麦」という表現がなされており、これが日本の文献における大麦のデビューになります。 平安初期に編纂された『和名類聚抄』には「米麦を乾かし、これを炒って粉にし、 湯水に転じて服す。これを『みずのこ』あるいは『はったい』という」と記されています。

徳川家康と大麦
江戸幕府を開いた徳川家康が、麦ごはんを好んで食べていたことは『徳川実記』に記されています。麦ごはんに胃腸を整えるなどの効用があることを、家康は知っていたのだろうと思われています。あるとき、家来が気を利かしたつもりで、白飯に少しばかりの麦飯をかぶせて出したところ、「汝等は我が心を知らざるな。やぶさかで麦を食うとおもうか(おまえたちは私の心がわかっていないな。考えもなしに麦を食べているのではないぞ)」と怒るほど、麦ごはんにこだわっていたというエピソードが残っています。

天保の大飢饉と二宮尊徳
1833年から1839年まで続いた冷夏により、全国で多くの人が飢えに苦しみました。当時、小田原藩(今の神奈川県)で飢餓対策に当った二宮尊徳は、備蓄した食糧を支給すると共に、冷害に強い雑穀の栽培を命じました。そして米より早く収穫できる大麦のおかげで、人々の命が救われたと言われています。

麦飯男爵(ビタミンの父)高木兼寛
明治時代の海軍の軍医であった高木兼寛は、当時大変恐れられていたカッケという病気の絶滅に取り組みました。 当時、カッケは細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、食事の栄養欠陥から起こるものと考え、 軍艦の乗組員に麦ごはんを食べさせました。長期の航海にもかかわらず、乗組員からカッケの発病者が一人も出なかったため、 彼の予防法が広く世界に認められました。その後、ビタミンが発見され、カッケはビタミンB1の欠乏により起こることがわかりました。 このことから、高木兼寛は「麦飯男爵」や「ビタミンの父」と呼ばれています。

大正の米騒動と押麦の普及
1918年第一次世界大戦によって、日本は好景気に沸きましたが、貧富の格差が大きくなり、一般民衆は生活に不安を募らせました。富山県の主婦たちが米屋におしかけたのをきっかけに、騒動が全国に広がりました(米騒動)。この頃、大麦ごはんの普及・啓発活動に力を出したのが、静岡県出身の鈴木忠次郎です。鈴木忠次郎は蒸気を用いて、大麦を加熱・圧ぺんする技術を開発し、この方法を普及させました。その後、こうした作られる押麦は、今日まで精麦製品の主流となっています。

「貧乏人は麦を食え」
1950年の国会の答弁の中で、当時の大蔵大臣(今の財務大臣)の池田勇人は「所得に応じて、 所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食う」という発言をしました。 これが「貧乏人は麦を食え」というふうに伝わりました。しかし、池田勇人自身が当時麦ごはんを食べていたことは、あまり知られていません。

現代人と大麦
戦後の日本で、100万トン程度食べられていた大麦は、現在は2万トン程度になっています。しかし、 現在は健康を気にする人たちを中心に、食べられている量が少しずつ伸びています。現在、大麦の成分として最も注目されているのは食物繊維 で、 白米の約20倍の量が含まれています。大麦の食物繊維には、生活習慣病を予防したり、お通じをよくする効果があるといわれています。
大麦は太古の時代から食べられてきているけれど、食べる人の思いは時代によって変わってきているんだね。